2013年4月8日月曜日

7月28日(土)ブレッサノーネへ

第一次世界大戦でオーストリアが敗北し、南チロル地方はイタリア領になった。
チロル人は、いつかは同じ国になると期待して、さまざまな交流を続けている。
そんな背景を持つチロルの姿を見たいと、ブレッサノーネ(ドイツ語ではブリクセン、後で知ったのだが、イタリア領南チロルに住む人の中には、地名をドイツ語で表現するとか)へ出かけた。

インスブルックから国際特急ユーロスターのヴェネチア行に乗り、フォルテッツァで乗り換えた。ヨーロッパの南北を結ぶブレンナー峠を過ぎると、イタリア領チロルに入り、2時間近くかかってブレッサノーネへ到着。
同じチロルなのに、インスブルックから訪れると地理的には遠いが、心理的には、とても近い感じがするから不思議だ。

南チロルには、ドイツの古典派詩人・作家のゲーテ(1749〜1832)が、イタリアへの旅の途中に泊まったし、ナポレオン1世率いるフランスの軍隊がブレンナー峠を越えている。
特にブレッサノーネには、オーストリアの音楽家モーツアルト(1756〜91)も足跡を残しているし、現在はローマ法王の夏の避暑地になっている。ローマ時代から峠越えの重要な道が通じていたのに、ブレッサノーネは古い歴史をとどめた小さな村だった。

観光の中心はドゥオモ広場だ。広場に面した13世紀建造の大聖堂が、カトリック信仰の威容を示している。聖堂の天井の見事な骨組み。回廊の微細な彫刻の佇まい。長い年月を刻み込んで、どっしりとした石造りの構えが、素晴らしい。大聖堂のパイプオルガンで、モーツアルトも演奏したと聞いた。

王宮庭園を歩き、咲き誇る草花や樹木の美しさに息を飲んだ。司教の館もまた、圧倒されるほどに堂々としている。それらを見上げながら、人々のつつましい暮らしと、その支えになっている大聖堂の佇まいを対比し、「信仰とは何ぞや」と思った。

「少し歩こうよ」と、ドゥオモ広場から延びる通りに入った。
雪の季節を凌ぐ天井のあるポルティコ(アーケード)が延びている。今日のような陽射しの強い季節には影になって、有難い。傾斜の大きい屋根は、もちろん雪の滑りをよくするためだし、小さな出窓の飾りが意匠を凝らして楽しい。
気候風土に根ざす暮らしの工夫の数々を確かめながら、イタリア・ブルガ川が流れる岸辺まで歩いた。
滔々と流れる川の水が、雪解け水のせいだろう。白濁したパステルグリーンで輝いている。ホッとしてしばし眺めた。

再び広場に戻る途中、露天が軒を連ねる細い通りを歩いた。
綺麗なラベルが貼られた瓶が並んでいるので覗き込むと、アルコール類を売っている。「グラッパがあるよ」と夫は目敏く見つけ、「ブレッサノーネはイタリアだから、その記念に・・・」と購入。
50歳代と思しき売り子の女性と、英語でいろいろと話した。夫が「この辺りの住民はイタリア語を話すのですか?」と聞くと、「住民の70%はドイツ語ですよ」とのこと。

チロルの英雄として敬愛されているホーファーは、南チロルで生まれている。チロル人の絆は南チロルにある。南チロルがオーストリアから切り離された歴史を思いだし、日常生活にその影響が色濃く残っていることを改めて感じた。

ホテル「ゴールデナー アドラー」のレストランで遅い昼食をし、3時過ぎの国際特急で帰路に着いた。コンパートメントはおろか、廊下まで超満員だった。やっと廊下のベンチに座った。
今日のイタリアへの旅は、いわば消化企画の感あり。お疲れさんでした。

参加者一同が揃う夕食は、ホテルのレストランで。
シェフが、この夕食のために腕によりをかけて準備したという。
インスブルック滞在が順調に過ぎ、思い出の数々を振り返りながら、歓談した。
お互いの大胆な?スケジュールが披露されたし、谷あいによって古い伝統が維持されているチロル地方の保守的な暮らしの心地よさや、人懐っこいチロル人の優しさを、異口同音に納得した。
「もっと滞在したいなあ・・・」と、名残を惜しむ時間となった。

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