2013年3月13日水曜日

7月25日(水)休養日

朝寝坊して、8時頃に朝食へ降りていくと、1泊旅行に出かけている日本人が多いせいか、閑散としている感じだ。

午前中、ホテル前のコインランドリーへ。だいぶ溜まっていたのでさっぱりした。

1時頃、昼食はピザ屋の「マンマ・ミーア」で。
先日ピザを食べたので、カルボナーラを注文。ヴァイスビールとラドラーも添えて。これはお茶代わり。飲まないと忘れ物をした気分で物足りない?。

食後、お土産を物色するつもりで旧市街の店を覗く。夫がかなり疲れた様子なので、3時過ぎにはホテルへ戻った。

「年を取るほど、ゆっくり疲れがやって来る・・・」と、昨日の悲鳴はどこへやら、憎まれ口をきいたが、ほんとうは、夫は買い物に付き合うのが嫌い。それに昨日のハイキングでは、だいぶ気苦労をしたし。こんな条件下では、買い物をする方が・・・だね。

夕食は部屋で済ませて、早々と就寝。


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7月24日(火)行きはよいよい、帰りはこわい

夫は、「同じ道を下るのは面白くないよ。地図で見ると、山上駅への別ルートがあるし、上りよりは下りはたいしたことないから・・・」と言う。「それもそうねえ」と、上りの道を思い出しながら、1時40分に下り始めた。

ところが、想像を裏切って”たいしたこと”だったのだ。
歩き出すと間もなく、下を見れば目が眩むような崖のつづら折りの道になった。特に折り返す部分は絶壁で、一歩踏み外せば、谷に落ちて行くような錯覚で、恐怖だ。すれ違う人がいると、やっとのことで山側にへばりつく。大小の岩や砂礫で滑る道だから緊張する。大きな岩のある段差を降りるために、脚をいっぱいに伸ばしても届かない。滑るように足場を探って、やっと進む。

喉の渇きすら忘れて、緊張しながら50分ほど歩いた頃、復路半ばにある山小屋「ボッシュエーベン・ヒュッテ」が現れ、ホッとした。
この山小屋は夏の時期だけの営業で、尾根を行くハイカーが宿泊する設備があるし、食事を提供している。
そこで飲んだアップルジュースの美味しかったこと! さっきまでの必死な気持ちは失せ、周囲をのんびり眺める余裕が生まれ、人心地を取り戻した。

ところが、山小屋前の道に急ぎ足の4人の親子連れが現れ、「あと40分で、最終のゴンドラが出るよ」と言いながら、たちまちに遠ざかって行った。
さあ、それからは必死に歩いた。地図を見るとかなりあり、弱音を吐く暇もない。息を切らせ、歩きに歩き、とうとう、「インスブルック行きに乗れなくてもいい」と居直った。同じように先を急ぐグループが、次々にやって来る。
夫は「こんなにたくさんの人がいるのだから、ゴンドラが待っているよ。頑張れ」と叱咤激励する。

発車ぎりぎりに間に合ったゴンドラは、満員だった。
「もうハイキングは金輪際しない」と呟いたが、満足気な人々を眺めながら、スリルに満ちた素晴らしいハイキングだったとも感じていた。夫はしみじみと「あんたさんには、たいしたことだったねえ。大誤算だったけれど、結果はよかったでしょ」と笑った。

5時過ぎにホテルに無事に帰り着いた。
膝や踝が痛み、太腿からふくらはぎにかけて脚がつる。日焼けでお猿のお尻状態に赤くなった顔。シャワーを浴び、湿布をペタペタ貼り付け、疲れ果てて、夕食を食べる元気も出ない。なんとも大変な1日だった。

改めて地図を見直すと、午後のハイキングの道が、7月6日午後に出かけたトゥールファインアルムからフィガーシュビッツェを経て、ボッシュエーベンヒュッテに通じていることがわかった。ツィルベンヴェーク(霜降り松の道)として人気があるハイキングコースで、その半分を歩いたのだと知り、苦行?の成果を理解した。

7月24日(火)パッチャーコーフェルへ出かける

7時に朝食へ。久しぶりに仲間と会って、懐かしく挨拶。
今日から1泊で、イタリアのブレッサノーネへ出かける人が多い。滞在も終盤になって、まだ残している計画を実行しようと張り切っている。

パッチャーコーフェル・バーンのゴンドラの運転開始のニュースを聞く。
ゴンドラ経営会社とインスブルック市の交渉が、やっと解決したのだ。
ハイキングで利用する観光客の多いシーズンなのに、いつまとまるか不明だった。ほとんど諦めていたから、帰国前の解決は有り難い。早速、出かけることにする。

インスブルック中央駅前から、10時発のバスに乗り、パッチャーコーフェル山麓駅のあるイーグルス(標高900メートル)まで15分。
そこからゴンドラに乗ってパッチャーコーフェル山頂駅(標高1964メートル)へ。
標高差1000メートル余りを15分で登った。リフトやゴンドラにも慣れ、最初の頃ビクビクしていたことが不思議に思えてくる。

眼下のインスブルックの街の広がり。朝な夕なに見上げる向かい側の山並みはノルテケッテだ。ひとつひとつ記憶の奥に留めようと見渡す。何度眺めても飽きることなく、見事な風景だ。

さて、山頂駅からのハイキングのルートは二つ。右へ歩くか、左へ行くか。
地図を見ると、右は、パッチャーコーフェル(標高2246メートル)まで1時間。年配の夫婦や子ども連れの家族が右へ歩いて行く。左はツイルベンヴェークを縫って距離は長い。ハイキングに慣れたグループや若い人が向かっている。私たちは、右が相応しいと判断した。

山腹を大きく巻く道は、車が通れる幅で整備されて、ときおり車が下って行く。
歩き始めは緩やかな勾配の坂道で、「楽チンなハイキングだわねえ」と、いささか拍子抜けする雰囲気だ。
カーブを大きく回るにつれて、これまでの風景がゆっくりと変化し、360度のパノラマが拡がっていく。インスブルックは、こんなに身近にハイキングを堪能できるのだからじつに羨ましいし、素晴らしいと、歓声をあげ続けた。

揃って元気いっぱいに右手に歩き出した人たちは、跳ねるようにどんどん先を行く子どもたちも、大地を踏みしめるかのようにぐいぐいと歩幅を重ねて歩いている老夫婦も、何時の間にか姿が見えなくなっている。後から来た人たちも、次々と追い越して行く。「庭を歩くような気分で、山の坂道なんて平気なのね。凄いなあ・・・」と驚き、感心しながら、マイペースで歩き続ける。

次第に歩幅が狭くなり、心臓の鼓動が高鳴って、「まだあるの?」と悲鳴をあげ始め、それから何度「ちょっと、ひと休み・・・」を繰り返したことか。
1時間をはるかに超えてパッチャーコーフェルの頂上に立ったとき、それまでの弱音はどこへやら、 「やったあ・・・」と歓声をあげ万歳した。
「インスブルック滞在中に、たくさんの頂上に立ちたい」と話していたが、パッチャーコーフェルは七つ目の快挙?になった(はずだったが・・・)。

頂上近くの山小屋で食べた、骨付のフランクフルターとスープの昼食の美味しかったこと!
オーストリアの旅行社のガイド2人と同じテーブルになった。彼らは、老若男女25人のグループを案内し、「ロシア、アメリカ、ドイツ、オーストリア、オランダから参加している国際的なハイキンググループです」とのこと。
周囲のテーブルを見まわすと、寛ぎながらお喋りしている参加者は、いずれも日に焼けて、逞しい。食事が終わると、英語の案内で、出発していった。

2013年3月12日火曜日

7月23日(月)リュフィコプス展望台で

5時半起床。
空は快晴だが、山には朝霧が深く漂っている。夫は写真を撮るために早々と出かけ、1時間以上、周囲を歩いて戻ってきた。

レッヒの中心部は標高1444メートルだけれど、オーバーレッヒは丘の中腹にある集落で、標高1750メートル。ロープウエイで下に降り、昨日出かけたリュフィコプス展望台へのぼった。

雲ひとつない快晴で、周囲の広がりが素晴らしい。展望台の東西南北のパネルには、連なる山々の高さと形が書かれ、その間に、パリ、モスクワ、東京、ニューヨークなどの大都会の方角が刻まれている。山と都市の名前を確かめていると、意外に世界の広がりが親近感をもたらすから不思議だ。

そんな感慨にふけっているとき、10歳前後の小学生のグループがやって来た。
先生が山の名前を言いながら指差し、生徒はパネルに書かれた標高を確かめながら眺めている。
そのうち、「東京って書いてあるよ」と声を上げた男の子に、「日本の首都だよ」と先生が話している。
先生の近くでその様子を眺めていたから、やり取りを耳にし、ちょっと会話に加わりたくなった。「私は東京で生まれて、近くの県に住んでいます。レッヒには観光で訪れましたよ」と言うと、先生は「そりゃあ、ラッキーだ。東京はどんな都会ですか?」と、逆にいろいろ質問されてしまった。

日本の政治の中心都市で人口が多いこと、日本各地と鉄道や飛行機で通じ、都内では地下鉄の路線も多くて、交通網が整備されていること、気候が温暖で四季の変化があること、文化・娯楽などの楽しみが多いことなどを話す。
先生は生徒にドイツ語で話し、生徒からの質問を私に英語で聞き、通訳している。
臨機応変に学習をする機会をつくる先生の様子に感心し、昔の経験が役立って協力することができたけれど、好奇心が強くてお節介をしたのは、冷や汗ものになった。

12時45分、山麓駅前広場に集合。
ホテル「アールベルク」の庭で、揃って昼食した。ダイアナ妃がご愛用だったレストランだとか。クラブ・サンドイッチを注文。ラドラーとビールも忘れない。

アールベルクは、レッヒ川を挟んで村のメインストリートに面している。川のせせらぎを聞きながら、周囲の山並みにすっぽり囲まれた木陰の2時間は、至福のひとときだった。

特に、インスブルック滞在の旅で、地元の若い旅行社社長であり、企画・案内を担当したモラスさんと、個人的な雑談をした。
母親が東京のオーストリア大使館に勤務していたので、オーストリア人と結婚した。いろいろあったけれど、幼い頃からオーストリアで暮らしている・・・。
このときの話でモラスさんは35歳だと知った。若い。外国で育った青年には、ときに日本の同世代よりも礼儀正しく、成熟していると感じることがある。モラスさんもそういったひとりだった。
滞在の日が経つにつれ、私たち夫婦は何度も言ったものだ。
「日本の旅行社の企画だけれど、モラスさんのゆき届いた素晴らしい気配りあってこその旅だと思う。インスブルック滞在の大半は、モラスさん抜きでは、こんなに満足しなかっただろう」と。

3時発の「ランゲン行」のポスト・バスに乗車したが、入口の発券機が故障している。運転手が「乗りなさい」と手を振り、全員無料になった。のんびりしたものだ。
3時25分着。ランゲン・アム・アールベルクですぐに乗り換えて、3時30分発の
ウイーン行特急列車に乗った。5時頃、インスブルック駅帰着。
7月22日(日)エコとハーブのレッヒ村
1990年までのレッヒ村では、年間800万リットルの灯油を消費し、雪が汚れて問題になって来た。以前の生活空間を守る努力をしなくてはと、エコの考えが様々な面で検討された。

ひとつは木質バイオマスで集中暖房する施設をつくったこと。各家庭への配管で熱湯が供給されている。レッヒ村に到着してすぐに、建物の屋根から白い蒸気がもうもうと立ち上っていたのが気になったけれど、「ここで熱湯がつくられています」と聞いた。村内には同じ施設が4カ所あるとか。

ふたつ目は、排気ガスを減らすために、電気自動車を積極的に採用していること。

その他、山の中に道路を造らない、すでにある道にも一般車は立入禁止、川の上流は土地開発をしないなど、自然保護のために、徹底した規制が行われている。
その結果、川の水が飲めるように回復したし、空気がきれいになって、花の色が美しくなった。
地元の有機栽培農家が育てる食材で料理をし、地元の建材で家を建てるなど、自給自足しながら暮らしの質を高める工夫がされた。
そうした成果が着実に実ったレッヒは、自然保護の模範的な村になっている。
ホテルやレストランなどの玄関前に、「環境保護賞」を意味する花の形の輪があって、個数は受賞回数を表している。個数が多いほど、村の自然を大事にしている証拠だ。

11時近く、オーヴァーレッヒにあるホテル「ブルグヴァイタル」に到着。今晩はここに泊まる。
荷物を置くと、早速ハーブ園を歩いた。ちょうどハーブの成長の盛りで、花々が咲き乱れている。日本語のハーブのパンフレットがあり、採集と保存、使い方、効能などが写真入りで説明されて、わかりやすい。スギナ、ヨモギ、ナズナなど日本でもお馴染みの野草がハーブティとして利用されているのも、楽しい。
思い出した。「日本人は草花や樹木の名前をよく聞きます。この国では、草、花、木というだけで、済みますが・・・」と苦笑したトルコのガイドがいたっけ。きっと、ハーブについても質問が多いのだろう。

ハーブ園を一巡後、シェフのルシアンさんがハーブをつかった料理を説明。
ハーブ入りの焼きたてのパンと一緒にワインを試飲し、続く昼食は、ホテルの人気メニューだった。

メニュー ルシアン氏の庭のサラダ
地元産のチキンのソテー、マッシュルームとパンダンプリング添え
デザートはイーストダンプリング
この辺りで代表的な赤ワインの「SEPP MOSAR」を注文。

ロープウエイでレッヒの中心部へ降り、ぶらぶら歩く。レッヒ川に沿ってホテルや商店、レストランが建っている。ヘミングウエイが滞在した「ホテル・クローネ」。ダイアナ妃のお気に入りのホテル「アールベルク」など、有名人が足跡を留めた話を聞きながら、ロープウエイ山麓駅へ。
そこから、宿泊ホテルから眺められる向かい側の山々のひとつ、リュフィコプフ(2362メートル)の展望台へのぼった。

レッヒ川の流れを挟んで、こじんまりとした村を見下ろしながら、山の恩恵を与えられ、それを育てている村人の暮らしを想った。
生憎雲が多くて遠景は霞んでいるし、日帰りグループの出発時刻もある。もっとゆっくりと眺めたかったのだが、ロープウエイで降りた。明日の天気を期待して、自由時間にもう一度来よう。

その後、14世紀のフレスコ画が残る聖堂や、その前にある郷土博物館を覗く。
古いけれど、どこにでもあるような印象で、たいして感興は湧かず。レッヒは自然と人々の暮らしぶりが財産だと感じた。

5時頃、ホテルにチェックイン。
夫は付設のプールへ出かけ、元気おじさんぶりを発揮。7時からの夕食まで寛ぐ。
7月22日(日)レッヒへ1泊の旅
数日前、ホテル・ロビーの掲示板に「フォアアールベルク州のレッヒへの1泊の旅」の案内が出た。
「冬は雪深いのでスキーが盛んなヨーロッパの高級リゾート地。王族・貴族の社交の場になっています。夏は斜面を辿るハイキングが盛んです。ハーブの宝庫で、それらを使った美味しい料理もあり・・・」。

早速ガイドブックや地図を眺めると、レッヒのあるフォアアールベルク州はオーストリアの西のはずれで、領域は狭い。北側にはドイツ、西の一部にはリヒテンシュタイン、西から南にかけてはスイスの国境が迫っている。

700年前には人が住んでいなかったアールベルクの谷間(レッヒ)に、スイスの農民がやって来て定住し、文化的にはスイスの影響が強いという。
「スイスねえ・・・」と、10年前の滞在を思い出した。スイス人は働き者だし、利に聡い民族だし。ハプスブルク家の支配から独立を勝ち取って以来、小国ながら独自の歴史を辿っている。レッヒにやってきた開拓農民には、そのDNAが流れているのだろう。彼らはオーストリアに定着したゲルマン民族とは異なる一派で、今でも言語が違うという。

レッヒは辺境の山奥の村だから、ヨーロッパ国際特急列車(EC)に乗ってザンクト・アントンまで行き、バスに乗り換えても時間がかかる。個人で出かけるよりはツアーに参加した方が便利だ。スイスの影響やハーブの宝庫という惹句に興味を持ち、申し込んだ。

往きは貸切バスで、9時にホテル出発。もう一つのホテル「クラウアー・ベアー」に滞在している参加者がすでに乗っている。日帰りの参加者は、帰りもこのバスを利用する。1泊参加者11名は、バスと列車を乗り継いで帰ることになっている。

往きの車中では、オーストリアやレッヒを紹介する映像が流れ、訪れる土地の事情がわかって面白かった。チロル州議会見学での説明では、「環境保護」はオーストリアの大事な政策だった。映像は、その具体的な例を次々に映し出した。

買い物を入れるビニール袋はトウモロコシの枝や葉で作られ、1枚20セント(滞在中の1ユーロ=100セントは100円前後だから20円)で売られ、何回も利用されている。
空瓶は1本50セント(50円)、ペットボトルは35セント(35円)を価格に上乗せしているが、返却すれば現金が戻ってくる。
生鮮食料品は原則としてバラ売りで、自分で秤にかけるか、レジで計ってくれる。野菜類は有機栽培が多い。
車の利用を抑えるために、身分証明書を提示すれば1時間以内は無料で自転車を貸し出している。電気自動車の充電スタンドが、どこの自治体にも設置されている。
コンテナによるゴミ分別が徹底し、衣類は発展途上国へ送っている。

現在のレッヒ人口は1400人。観光客で増える時期でも、無駄なゴミを出さない生活を徹底すれば、街が綺麗になると強調する映像を眺めながら、その方針に沿った暮らしには、住民の意識が土台になっていることを痛感した。

次第に標高が高くなって、耳鳴りがする。バスは深い霧の中をひたすら走って行く。
やがて、片側に窓があり、屋根が張り出している長いトンネルに入った。チロル州とフォアアールベルク州の境界に造られたアールベルク車両トンネルで、14kmほど続く。州境のアールベルク峠(1793メートル)は、古くから交易路の難所だった。トンネルの開通によって、レッヒ村などオーストリア西部へのアプローチが大きく変わり、山岳高級リゾート地になったという。
小さな窓からは、走って来た道や、白く弾けた水が崖から筋条に落ちている様子が、ちょうどまわり燈籠のように変わりながら、覗き見える。

窓外の曇天を気にしながら風景を眺め、ツルス村を通過すると、急坂の下りになった。10時35分頃、レッヒ村(標高1444メートル)の入り口に到着。一山越えて辿り着いた感じがした。

7月21日(土)王宮へ出かける

昨日は不覚にも昼寝をたっぷりしたのに、起床は7時。
元気な日々だけれど、体は正直に疲れを感じているらしい。明日から1泊旅行の予定だから、体力確保をしなくっちゃと、ゆっくり、のんびりと休養することに。

午後、快晴に誘われて王宮へ出かけた。
王宮は、1460年にジークムント大公によって建造され、ハプスブルク家の繁栄に伴って拡張し、マリア・テレジア時代(1754〜73にかけて)に改修されて、ロココ調の大広間や礼拝堂が造られた。

この王宮で、マリア・テレジアの三男(後の神聖ローマ皇帝)レオポルト2世が、スペイン王女ルドヴィカと結婚式を挙げている。マリア・テレジアは、スペイン王家との姻戚関係の強化で、レオポルドの婚姻にはとりわけ満足だったらしい。凱旋門まで建造しているのだから(7月19日記述)。
礼拝堂では婚姻のミサが執り行われ、大広間では祝宴の舞踏会が行われたのだろうと、華麗な舞台に思いを馳せながら辿った。

マリア・テレジアの治世の始まりは、決して安泰だったわけではない。
父王カール6世(1685〜1740、在位1711〜40、ハプスブルク家男系最後の王)には、娘しか生まれなかった。案じたカール6世が、家訓の男系家督相続を改めて、女性の家督相続を可能にした。父王の死で1740年にマリア・テレジアが即位すると、「そんなの認められませーん」と、プロイセン・フランス・スペインが猛反対し、「オーストリア継承戦争(1740〜48)」が勃発。一度は鉾を納めたが、さらに「7年戦争(1756〜63)」が続いた。
これらの戦争は、マリア・テレジアの即位に反対する枠を超え、ヨーロッパの絶対主義諸国(王家)の野心の対立を示していた。

マリア・テレジアは、夫フランツ1世(1708〜1765、神聖ローマ皇帝在位1745〜65)と名義上の共同統治をし、国難を乗り切ろうとしたが、人がよいだけで政治的には頼りなかった。取り柄は愛妻家だったから、マリア・テレジアは子どもを”産めよ、殖やせよ”と16人出産し、彼らをヨーロッパ王室外交の人材として巧妙な姻戚拡大を展開していった。

また、インスブルックの王宮が、大事な舞台になった時期がある。
1848年のフランスの二月革命の余波で、オーストリアでは三月革命が起こった。
自由主義・民族主義の嵐が吹き、メッテルニヒが失脚し、ウイーンに代わって、ハプスブルク家はインスブルックの王宮に移ったのだ。

インスブルック王宮の背景を知ると、出かけるのが俄然楽しくなる。

王宮の「大広間=リゼンザール」が素晴らしかった。広い空間のところどころに鏡が設置され、天井に描かれた画を反射して鑑賞できる仕組みになっている。見上げるのは首が疲れるから、いいアイディアだし、微妙な淡い色合いを身近に眺められるのだから、有難い。
ハプスブルク家の肖像画では、男性よりもマリー・アントワネットやエリザベート(愛称はシシー、1837〜98)の愛らしい姿に興味をひかれ、マリア・テレジアの威風堂々とした恰幅のよい肖像画を見て「さすが・・・・」と感じた。

エリザベートは、現代風にいえば、スタイルの維持にエクササイズに励んだらしい。化粧室や寝室のそばに、マシーン?もどきの器具があった。彼女はハプスブルク朝オーストリア皇帝のフランツ・ヨゼフ1世(1830〜1916、1848〜1916皇帝在位、1867〜1916ハンガリー国王在位)と1854年結婚し、オーストリア皇后やハンガリー王妃でありながら、貧しい庶民へ関心が強く、最後はジュネーブ滞在中に暗殺された。ハンガリーを訪れたとき、今でも人々の記憶には、エリザベートのスタイルと美貌、彼女の人生が強烈に残っていることを感じたが、王宮のマシーンを眺めながら、人気の在り方を改めて思った。

一見素朴なつくりだが、製造年代によって、微妙に形が変化している椅子のコレクションがあった。背もたれの優美な曲線と装飾は、ロココ調なのだろうか。マリア・テレジア時代のものも含め、インスブルックの椅子製造の親方がつくったと説明あり。

気晴らしには程よい王宮見物だったし、久しぶりに世界史を思い出した。

2013年3月11日月曜日

7月20日(金)質疑応答のいくつか。

⑴ 原子力発電をしているか。
電力の80%は水力発電で、20%はドイツから購入している。ドイツから買った電力に原子力発電があるかもしれない。原発はしていない。
チロルの人は今の生活に満足し、自然を破壊するダムはこれ以上造らないと決めている。自然を破壊すれば、動物も減少する。

⑵ 専門家に御用学者の問題はないのか。
若い世代からの教育で、それを防ぐことができると考えている。
議員は立場が違っても、意見を聞き、主張し、討論する。選挙民が見張っている。

⑶ EUとの関わりはどうか。
チロル州では、EUの問題に半数は不満をもっている。治安・失業率・生活の質については、今までは満足していたが、最近は変化が出始めている。

⑷ 最近の日本では、健康面を考えて喫煙者へ厳しくなっている。街中で喫煙する人を多く見かけるし、吸殻もたくさん捨てられている。規制はしているか。
80m2以上の建物では禁煙になっているが、建物の出入口の外では、自由に吸える。自己責任で喫煙している。
(と言いながら、ハウワー氏はポケットからタバコを取り出し、「私も外では喫煙します。多分、来年みなさんが再びインスブルックにいらしても、変化がないでしょう」と。一般にドイツ系の人には、喫煙者が多い感じがする・・・)

議場を出ると礼拝堂があるのに気がついた。13世紀に造られたものだとか。
礼拝堂入口に、ラディン語(ラテン語)のモニュメントがあり、オーストリアの少数民族ラディン族(約2万人)が、2年前に設置したものだという。テーマは「未来への期待」をあらわしているそうな。
礼拝堂は普段は使われていないが、州議会の開会前に、州議会議員とその家族が集まってミサをおこなっている。

旧州庁舎前で解散し、1時頃ホテルへ戻る。ちょうど部屋の掃除中。
ロビーで、1日遅れの朝日新聞の海外版を読んで待つ。PCで朝日新聞をダウンロードして読んでいるのだが、全面が一目で見られるレイアウトがいいし、紙の感触がいい。書籍や週刊誌、天気予報を眺めるだけで、世間の動きがわかるのだから。アナログ人間の証拠だ。

午後、PCに向かうつもりだったのに、次第に眠くなってベッドにもぐりこんだ。
ウトウトしているうちに深く眠り、気がついたら5時半。

終日、降ったり止んだりの梅雨を思わせる雨で、窓からのノルテケッテは全く見えず。


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7月20日(金)議会活動のあれこれ

⑴ オーストリア共和国には首都ウイーンと8の州があり、行政の権限は主に州にある。以前から、中央集権と地方分権の立場の違いは、ドイツの影響では国が強いし、スイスの影響では州が強い。例えば税金をみると、国と州の分担の違いが州によって異なっている。

⑵ 州議会議員の選挙は5年に1度行われ、チロル州では16歳以上に選挙権がある。
16歳の選挙権を認めることについては、激しい議論があった。選挙は州の政治に影響するのだから、権利と責任を伴うが、16歳はまだ未熟だと。そこで、家庭で選挙や政治について話す機会を多くし、16歳でも責任を果たすことができるという世論ができた。若者の考えが政治に反映するので、チロル州住民の安定につながっている。他の州に比べて地元を離れる者が少ないから若者の失業率が低いし、犯罪が少なくて治安がよい。
(これは逆にいえば、谷毎の共同体はお互いによくわかるし沢山の目があるので、保守的な面があるとも言える)

⑶ 選挙権については複雑な事情があって、オーストリア国籍を持つ者となっているが、最近は地方自治体ではEU国籍を認めている。

⑷ 前回2008年実施のチロル州議会選挙では、36名の議員を選出した。そのうち10名が女性。平均年齢は54歳。投票率は78%だったが、それ以前は80%以上だった。
16年間、オーストリア民主党が実権を握り、他に自由党・社会保障党・みどりの党などの議員がいる。

⑸ 議員は議会会期中に、最低2回の発言機会がある。だれかが準備した原稿の読み上げは許されない。自分の意見をはっきりと言い、その様子はカメラに収められてインターネットで放映される。議会の議論は、静かに聴くことに徹し、ヤジは嫌われる。
(日本の国会議員に聞かせたいなと、思った。)

⑹ その他に、ウイーンの国会にチロルを代表する議員がいて、活躍している。
オーストリア共和国の発展の柱は、観光資源、社会福祉、環境保護の3点。
法律制定の材料を説明する専門家がおり、その助言に基づいて議員が討論し、法律ができる。
専門家は将来を考える人たちで、環境・防衛・社会福祉・エネルギーなどの各分野で活動し、議会と深く結びついている。

7月20日(金)チロル州議会見学

10時。地元旅行社の特別企画・旧州庁舎内にあるチロル州議会見学へ。
滞在中の日本人が30人近く参加した。街の様子がある程度つかめてきたので、時期を得た勉強になった。

州議会責任者ホフ・ハウワー氏が「議会見学をする日本人は初めてですよ」と歓迎の挨拶をし、先ず旧州庁舎や議会内部の装飾・彫刻などを解説しながら案内してくれた。

現在の旧州庁舎は、チロルで最も重要なバロック宮殿のひとつで、1725年から4年かけて建設され、部分的にはそれ以前の古い部分も残っている。

議会の天井画は、ウイーンで活躍していた画家が、1735年に描いたものだ。

議場の前面の壁の右側に聖職者、左側に貴族、後ろの壁にはブドウを持つ農民の彫像がある。

「チロルの農民は、比較的早く領主から自立して土地を持ちましたよ」と語りながら指差す壁を見ると、天使がひとりの人物の首を切っている。「”農民が束になれば力になる”ことを、あらわしているのです・・・」。
天使に仮託して、農民の立場を象徴的に示しているらしい。それだけ農民の怒りが大きかったのだろうが、呆気に取られた。

議場の壁面には、他にも聖書と結びつけてチロルの物語(歴史)を描いた絵や彫刻が多い。13世紀にチロルのキリスト教をまとめた人物像が描かれていて、左手を差し伸べているのは優しさを、右手に握る劔は厳しさを表しているとか。

チロル一帯では、1340年代には支配者と市民との話し合いがあったし、1363年からのハプスブルク家の支配では、市民の権利を認めていたという記録がある。こうした流れが、実質的な議会の始まりになったらしい。

インスブルックに到着して時間が経つにつれ、チロルの人たちが地域の伝統に対して非常に誇りを持っていることを、いろんな場面で感じていた。
議会の歴史や絵画・彫像の具体的な説明を聞きながら、チロル人の誇りは、こうした背景から育ったのだと感じ、なるほどと思った。

その後、州議会の議場の椅子に座って話を聞き、質疑にも丁寧に答えてくれた。チロル州の歴史、州議会の役割、その他、1時間余り。
具体的な議会活動に関連する話は興味深く、ときに笑いを誘ったり、感嘆の声があがったり。通訳をしたモラスさんは、ホフ・ハウワー氏を州議会議長と紹介したけれども、わかりやすい説明と聞き手を飽きさせない話術から、ひょっとして議会の事務方のベテランで、案内や説明に慣れた担当者ではないかとさえ思った。
面白くて楽しんだ。

7月20日(金)「PENZ」の朝食、行政の発想

「PENZの料理は素材が良くて、美味しいんですよ」。
そんな評判を地元の人から聞いた。毎日食べているオイローパホテルの食事は美味しいけれど、目先を変えて比べてみたい。それに好奇心もある。
そこで、今日の朝食は「PENZ」ホテルの屋上テラスへ出かけた。

市庁舎の隣りに、最近できたばかりの近代的なホテルがある。
その最上階のレストランは、眺めが素晴らしい。ノルテケッテとパッチャーコーフェルの山並みに朝もやがかかり、なにものかに吸い込まれるように、どんどん消えていく。しばし自然の絶妙な躍動を眺める。これもご馳走の内だろう。

ヴァイキング式の朝食は、料理の種類が多い。なにを選ぼうかと、迷ってしまう。まずはゆっくりと眺めて楽しむ。
珍しい南国の果物、多彩なチーズとハム、野菜、ジャム類が並んでいる。
反対側のテーブルには、調理された数々の料理があり、注文するとできたての皿が供される。オレンジジュースの絞りたての爽やかさと、マッシュルーム入りの焼きたてのオムレツの香ばしさ。
期待に違わず満足して、優雅な1日の始まりとなった。

すぐ隣りの建物に市長室があるのだから、インスブルックの市長も朝食の常連で、仕事前にやってくるのだとか。

朝食の話のついでだが、市庁舎の立地が面白いし、発想が素晴らしい。
市長が街の行政を考えるには、実に理にかなっているのではないかと思ったので、記録しておこう。

街の暮らしに仲間入りしてすぐ、町歩きのガイダンスで初めて訪れたのが、ショッピングセンターだった。「ここに市庁舎がありますよ」と説明されて、びっくりした。
街の再開発で最近完成したばかりの建物の内部には、洒落た店、予約しないとはいれない評判のレストランが並んでいる。窓に飾られている品々。店内のレイアウト。色彩の素晴らしさとデザインのセンスの良さ・・・。それぞれの店が競うように洗練されているし、個性を感じさせる佇まいが良い。
「でも、どこが市庁舎なの?」と辺りを見回し、やっと理解した。
市が土地とビルを提供し、レベルの高い店を店子にして観光名所にした。店の大家は市長だったのだ。市長室は、建物の最上階にある。

ビルの建築費は家賃から還元されていく。住民にしても、街中に買い物に来たついでに、市庁舎に気軽に行かれる。
市長自ら、毎日、店の様子や人の動きを見ることだろう。否応なしに人々の暮らしぶりを感じるだろうし、観光面の経済状態をチェックすることにもなろう。
市長の皮膚感覚が、行政に生かされるに違いない・・・・。
そんなことを想像し、すべてはいいことづくしとはいかないだろうけれど、この建物自体が、インスブルック経済の動向を反映していると感じたのだった。

7月19日(木)休養日

昨夜は我が家に戻った気分でやれやれと寛ぎ、今朝はゆっくりと起床。
朝食時に、久しぶりに会ったお仲間と情報交換。

午前中コインランドリーへ。自宅だと洗濯機を設定すると他の家事が待っているけれど、ここでは持参の文庫本を読みながら待つ。

午後、凱旋門からマリア・テレジア通りに向かい、旧市街を2時間ほど散歩。
凱旋門は、ハプスブルク家のマリア・テレジア(1717〜1780、神聖ローマ帝国女帝在位1740〜80))が、息子のレオポルド(1747〜92、後の皇帝レオポルド2世、在位1790〜92)とスペイン王女の結婚を記念して建造を命じた。ところが、マリア・テレジアと共治していた夫フランツ1世(1708〜1765、在位1745〜65))が1765年、観劇中に急逝したので、門の北側は「死と悲しみ」、南側は「生と幸福」をあらわす装飾が施されたという。

「凱旋」は戦いに勝って帰ることだが、息子の結婚を記念して門を造らせたことには、深い意味がある。銃火を交えずして、スペイン王家との姻戚関係で領土を拡大したのだから、凱旋に相応しいとガイドブックにも紹介されていた。

16人の子どもを産んだマリア・テレジアは、絶対主義体制の確立に子どもを政略結婚させ、末娘のマリー・アントワネット(1755〜1793)を、後のフランス王ルイ16世(1774〜92在位)と結婚させ(1770年)たのもそのひとつ。彼らはフランス革命でギロチンにかけられた。

ラム入りの生チョコレートを買い、デパート「カウフハウスチロル」でTシャツを物色後、ホテルへ戻った。

夕食は「そろそろお寿司を食べたいね」と、18時を目指して「ケンジ」へ。
「和食でないと、どうも力が出ないんだなあ。寿司、刺身のネタが新鮮ですよ。酢の物や野菜の煮物もあるし、味噌汁もあって、安心できるし・・・。昼食には弁当メニューがたくさんありますよ」と、毎日のように出かけている仲間から聞いていたからだ。

開店は6時からだったので、少々早くついてしまった。躊躇している様子の私たちを見て、「そろそろ時間ですから、中へどうぞ」と案内された。
路地に面している入口のテラス席では、すでに数人の客がビールを飲みながら開店を待っていたので、「食前酒という手もあった・・・・」と囁く。

「ケンジ」は韓国料理中心だけれど、日本料理も豊富で、中華料理もある。
経営者(店主)は韓国人で日本語を多少話し、入り口で愛想良く客を迎えている。
ドイツ語と英語が堪能な若い息子が、客席をまわって注文を聞いている。
そのうちに、仕事帰りのグループ、日本人の夫婦連れ、観光客が次々にやってきて賑わってくる。

注文は、前菜数種類、刺身、寿司に添えて、ビール、ラドラー、ワインで乾杯。
息子が「如何でしょうか?」と尋ねるので、「新鮮でとても美味しいですよ。この刺身や寿司の原料は、どこから仕入れるのですか」と聞く。
「サーモンはノルウエーから冷凍されたのを仕入れます。マグロやイカ・タコは、とれたてのものが地中海から運ばれてきます」とのこと。
日本で食べるマグロには地中海産、特にクロアチアからの輸入品が多いことを話題にする。
久しぶりの和食をたっぷり食べて、満足した。