2013年3月12日火曜日

7月21日(土)王宮へ出かける

昨日は不覚にも昼寝をたっぷりしたのに、起床は7時。
元気な日々だけれど、体は正直に疲れを感じているらしい。明日から1泊旅行の予定だから、体力確保をしなくっちゃと、ゆっくり、のんびりと休養することに。

午後、快晴に誘われて王宮へ出かけた。
王宮は、1460年にジークムント大公によって建造され、ハプスブルク家の繁栄に伴って拡張し、マリア・テレジア時代(1754〜73にかけて)に改修されて、ロココ調の大広間や礼拝堂が造られた。

この王宮で、マリア・テレジアの三男(後の神聖ローマ皇帝)レオポルト2世が、スペイン王女ルドヴィカと結婚式を挙げている。マリア・テレジアは、スペイン王家との姻戚関係の強化で、レオポルドの婚姻にはとりわけ満足だったらしい。凱旋門まで建造しているのだから(7月19日記述)。
礼拝堂では婚姻のミサが執り行われ、大広間では祝宴の舞踏会が行われたのだろうと、華麗な舞台に思いを馳せながら辿った。

マリア・テレジアの治世の始まりは、決して安泰だったわけではない。
父王カール6世(1685〜1740、在位1711〜40、ハプスブルク家男系最後の王)には、娘しか生まれなかった。案じたカール6世が、家訓の男系家督相続を改めて、女性の家督相続を可能にした。父王の死で1740年にマリア・テレジアが即位すると、「そんなの認められませーん」と、プロイセン・フランス・スペインが猛反対し、「オーストリア継承戦争(1740〜48)」が勃発。一度は鉾を納めたが、さらに「7年戦争(1756〜63)」が続いた。
これらの戦争は、マリア・テレジアの即位に反対する枠を超え、ヨーロッパの絶対主義諸国(王家)の野心の対立を示していた。

マリア・テレジアは、夫フランツ1世(1708〜1765、神聖ローマ皇帝在位1745〜65)と名義上の共同統治をし、国難を乗り切ろうとしたが、人がよいだけで政治的には頼りなかった。取り柄は愛妻家だったから、マリア・テレジアは子どもを”産めよ、殖やせよ”と16人出産し、彼らをヨーロッパ王室外交の人材として巧妙な姻戚拡大を展開していった。

また、インスブルックの王宮が、大事な舞台になった時期がある。
1848年のフランスの二月革命の余波で、オーストリアでは三月革命が起こった。
自由主義・民族主義の嵐が吹き、メッテルニヒが失脚し、ウイーンに代わって、ハプスブルク家はインスブルックの王宮に移ったのだ。

インスブルック王宮の背景を知ると、出かけるのが俄然楽しくなる。

王宮の「大広間=リゼンザール」が素晴らしかった。広い空間のところどころに鏡が設置され、天井に描かれた画を反射して鑑賞できる仕組みになっている。見上げるのは首が疲れるから、いいアイディアだし、微妙な淡い色合いを身近に眺められるのだから、有難い。
ハプスブルク家の肖像画では、男性よりもマリー・アントワネットやエリザベート(愛称はシシー、1837〜98)の愛らしい姿に興味をひかれ、マリア・テレジアの威風堂々とした恰幅のよい肖像画を見て「さすが・・・・」と感じた。

エリザベートは、現代風にいえば、スタイルの維持にエクササイズに励んだらしい。化粧室や寝室のそばに、マシーン?もどきの器具があった。彼女はハプスブルク朝オーストリア皇帝のフランツ・ヨゼフ1世(1830〜1916、1848〜1916皇帝在位、1867〜1916ハンガリー国王在位)と1854年結婚し、オーストリア皇后やハンガリー王妃でありながら、貧しい庶民へ関心が強く、最後はジュネーブ滞在中に暗殺された。ハンガリーを訪れたとき、今でも人々の記憶には、エリザベートのスタイルと美貌、彼女の人生が強烈に残っていることを感じたが、王宮のマシーンを眺めながら、人気の在り方を改めて思った。

一見素朴なつくりだが、製造年代によって、微妙に形が変化している椅子のコレクションがあった。背もたれの優美な曲線と装飾は、ロココ調なのだろうか。マリア・テレジア時代のものも含め、インスブルックの椅子製造の親方がつくったと説明あり。

気晴らしには程よい王宮見物だったし、久しぶりに世界史を思い出した。

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