2012年10月15日月曜日

7月6日(金)午前 アンブラス城へ




【アンブラス城の展示館の回廊から本館を見る。山はノルトケッテの一部】

朝食後、急に暗くなって雨が降り出した。
午前中パッチャーコーフェルに連なるトゥルファインアルムへ登り、午後遅くにアンブラス城を訪れる予定だったが、雨が降る山は視界がきかない。アンブラス城を先にし、天候次第では、午後に山行きと予定を変更する。

アンブラス城には、ハプスブルク家一族のチロル大公・フェルディナンド2世(1529〜1595)の愛妻物語があるらしい。
大公がアウグスブルクの豪商の娘フィリピーネを一目惚れし、密かに結婚したのは28歳のこと。政略結婚がまかり通っていた時代の貴族社会では、豪商の娘とはいえ、庶民との結婚は許されなかった。長く結婚の事実を隠し続けたが、子どもが誕生したので、とうとうカミングアウトしたという。大公はハプスブルク家一族の冷たい目からフィリピーネを守るために、11世紀建造の古城を現在の規模に増改築。こうして、ルネサンス様式のアンブラス城は、1564年に完成した。めでたし、めでたしでした。

大公が収集した珍奇な絵画、中には槍で顔を突き刺されたが急所を外れたので生きている人の顔など、かなりグロテスクなものもある。「こんなものを蒐集した神経はかなり異常だねえ。それを展示するのもどういうものかねえ」と呆れる。

何世紀にもわたる鎧・兜の数々が展示されている。誰が使っていたかの解説を読みながら、「意外に小柄だわね・・・」「こっちは頑丈で重そう・・・」などと囁く。用途は同じでも、時代と体格の違いが伺えて面白い。

古ぼけた雑多なイスラム装飾の品々を眺めながら、キリスト教の神聖ローマ帝国とイスラム教のオスマントルコ帝国が、世界覇権の戦いを繰り広げた時代を思い出した。15世紀から16世紀にかけての熾烈な争いだった。1526年には、オスマントルコ軍がウイーンに迫り、キリスト教世界は危機に瀕していた。チロル地方は両軍の激戦地になり、神聖 ローマ帝国の危機を救う役割を担った。勝利を収めたときの戦利品が展示されていたのだ。ハプスブルク家とチロルの栄誉を垣間見た感じがした。

これらの展示品の数々は歴史への興味を引いたが、チロルの風景と重なるアンブラス城は、大公の愛妻物語の方が印象的だった。

庭園には、色鮮やかなペチュニアやベコニアが溢れ、孔雀が悠然と散歩中だし、カモの番いが揃って羽づくろいをしている。
また、現在のアンブラス城はインスブルックの観光資源だが、じつはマキシミリアン大帝(1459〜1519)が街の美観を重視したのが土台になっている。これについてはいずれ触れる機会があろう。

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