2013年2月5日火曜日

7月17日(火)観光前にバイエルン・ミュンヘンの歴史を少々

南ドイツとオーストリアは、神聖ローマ帝国(962〜1806)時代にはハプスブルク家に支配され、地理的・歴史的に深い関わりがあった。
今はどうなっているのだろう。また、現代史の舞台になったミュンヘンの現在も知りたい。そんな興味から歴史の流れを辿った。

ヨーロッパ諸国では、古くから諸侯・王家の関係が深く、巧妙な駆け引きによって、支配者の失脚や国の統合・滅亡が繰り返され、ときの強者が席巻してきた。
訪れるミュンヘンの歴史的な位置づけを辿りながら、諸侯の野心を知れば知るほど権謀術数が面白く、感心した。

そもそも”ミュンヘン”の地名は、古いドイツ語”ムニヘン=べネディクト会の修道士”に由来しているという。8世紀頃の修道士たちが、辺りに点在する集落をもとに、ミュンヘン建設の基を拓いたらしい。

この地方の政治的発展の端緒は、10世紀に、南ドイツの貴族ヴィッテルスバッハ家がバイエルン公の称号を得てからだ。ヴィッテルスバッハ家は、お家騒動を繰り返しながらも、第1次世界大戦のドイツ敗北の1918年まで続いた。

1158年は、ミュンヘン誕生の年とされている。
1158年のアウグスブルク帝国議会で、バイエルン公フリードリッヒ(1129〜95)は塩取引の関税徴収権を承認されたからだ。それまでは塩取引の徴税権は司教が握っていた。フリードリッヒはムニヘンが拓いた場所に都市を建設して司教に対抗し、経済の実権を奪った。現在のバイエルン州と州都ミュンヘンの関係は、中世の重要な商品「塩」の経済力が出発点になった。

16世紀、宗教改革が展開した頃、神聖ローマ帝国のバイエルン公(ヴィッテルスバッハ家)は、カトリック陣営を支持。続く大小300余の諸侯相乱れるドイツ三十年戦争(1618〜48)では、カトリックのリーダーとして政治的に重要な立場をとった。その活躍によって、1623年に選帝候に昇格し有力諸侯になった。

フランス皇帝ナポレオン1世(1769〜1821、皇帝在位1804〜14・15)がヨーロッパ支配を展開していた頃、バイエルン公はその片棒を担いで、バイエルン王の称号を得た。1806年以降、バイエルンは王国に昇格し、ミュンヘンが王国の首都になった。

バイエルン王ルートヴィッヒ1世(1786〜1868、王在位1825〜48)がミュンヘンを芸術の都に育てたので、以後、ドイツの文化的・知的活動の拠点のひとつになった。

孫のルートヴィッヒ2世(1845〜86、王在位1864〜86)の物語は、王家内の人間模様を窺わせる。音楽を愛した王は作曲家のワーグナー(1813〜83)のパトロンとなり、あるいはノイシュヴァンシュタインなどの築城に夢中になり、莫大な費用で財政を脅かした。そのため、周囲から精神病を患っていると王位を追われ、その3日後、シュタルンベルク湖で侍医と一緒に溺死体で発見された。自殺・他殺・事故死と謎が多い。
余談だが、この未解決事件は、小説(森鴎外の「うたかたの記」1890年著)や映画(ヴィスコンティ監督の「ルートヴィッヒ神々の黄昏」1972年)の題材になっている。不運な狂気王の話題性が形を変え、新たな文芸・芸術として再生した。

さて、20世紀前半の二つの世界大戦に、ミュンヘンは大きな役割を持った。ヒットラー(1889〜1945)登場の舞台となったのだ。
第一次世界大戦後の1919年、ヒットラーはミュンヘンでナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)に入党し、党勢拡大に貢献して党首(1921年)になった。
日夜ミュンヘンの酒場で仲間と協議を重ね、1923年にミュンヘン一揆を起こしたが失敗し、有罪判決。出獄後は、敗戦と世界大恐慌の大打撃の中にあるドイツで、ナチスのリーダーとして全体主義的大衆運動の実権を握った。首相(1933〜45)・総統(1934〜45)のヒットラーに率いられて、ドイツが第ニ次世界大戦へ突き進んだ。

20世紀後半。第二次世界大戦敗戦のドイツは東西に分断され、ミュンヘンには、時代の先端をいく科学技術が根をおろすきっかけとなった。ドイツの代表的な重工業企業のジーメンス社が、本社・主力工場・研究所をベルリンからミュンヘンへと拠点を移し、乗用車BMW工場の生産はミュンヘンで行われている。

ミュンヘンは、現在ドイツ第3の大都市に変貌している。中世以来の歴史をみると、強かに時代を生きてきた都市の背景がわかる。
清も濁も飲み込んだ歴史だから、ビールと一緒に、現在のミュンヘンを味わおう。

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