2012年11月26日月曜日

7月12日(木)北の国境を越えてドイツのミッテンヴァルトへ




【ミッテンヴァルトは、建物の壁にフレスコ画が描かれている街としても知られている】

朝食のときに、久しぶりにツアー仲間と会い、お互いの体験の情報交換をする。
その後、2日分の朝日新聞を読み、雑用の片付けを少々。

10時38分、インスブルック中央駅発の列車で、南ドイツのミッテンヴァルトヘ出かけた。単線で待ち時間があるので1時間かかるが、距離は20kmと近く、オーストリア国境からはわずか3km。車窓に断崖絶壁が迫り、たくさんのトンネルを抜け、樹木がまばらな山脈を眺めているうちに到着した。

小さな穏やかな村の東西には、スキーやハイキング用のリフトやロープウェイがあるけれど、かつて商業で栄えた面影はほとんどない。
駅から歩いても、市庁舎や教会のある中心部には数分で着いてしまう、小さな、小さな村だった。

「聖ペテロとパウロ教会」前に、村の守護神マティアス・クロッツ(1653〜1745)の記念像がある。繁栄から衰退のどん底に落とされたミッテンヴァルトを再生した人物だ。
時代を切り拓く人物の存在が、どんなに重要か。現在のミッテンヴァルトの村の佇まいを眺めながら、つくづく考えさせられた。



【ミッテンヴァルトをヴァイオリン製造の街として発展させたマティアス・クロッツの記念像】

近世以前のミッテンヴァルトは、北方のアウグスブルク・ニュルンベルクと、南方のヴェネチア・ヴェローナなどの重要な商業圏を結び、人や物資の往来で繁栄していた。それ以前も、ローマ時代からアルプス越えの間道が利用されて、交通の要衝だった。
ところが、大航海時代の幕開けで、帆船による物資流通が主役になった。ヨーロッパ商業の動脈の一翼を担っていたミッテンヴァルトは、新興のネーデルラント(オランダ)に敗れ、急速に衰退していった。

そんな時代に、「なんとかしなくては・・・」と危機感を持ったクロッツが登場する。イタリアで、ヴァイオリンを製作したアマーティ家(注)が活躍しているのを知った彼は、ヴァイオリン製造の技術修業に出かけた。

(注)アンドレア・アマーティ(1500〜1611頃)ヴァイオリン製作者
弟ニコラ・アマーティ(1568〜86頃活躍)ベース・ヴィオラ製作者
長男アントニオ・アマーティ(1550〜1638)
次男ジェロニモ・アマーティ(1556〜1630)
兄弟で父のヴァイオリン製作法の改良に取り組む
孫(次男の子)ニコロ・アマーティ(1596〜1684)製作改良を完成し、ニコロ一門から、グアリネリ、ストラディバリウスの名工を輩出

クロッツは修行を終えてミッテンヴァルトに帰ると、ヴァイオリンばかりでなくチェロやヴィオラなどの弦楽器製造業を確立。ドイツ語圏には、親方を頂点にした職人・徒弟を育てる伝統があったので、クロッツの先見が実り、多くの弦楽器職人が育った。
ミッテンヴァルトは、商業・運送業に代わって、弦楽器の技術を重視する職人が活躍する時代を迎え、19世紀には、村で年間1万点の弦楽器が製造され、ヨーロッパ各地に輸出されるほどに成長していった。
現在、村にはヴァイオリン製造の工房が10軒ある。
以上、ヴァイオリンの村ミッテンヴァルトの歴史的な背景を少々。

クロッツが住んだ家は、「ヴァイオリン博物館」になっている。村を代表する観光名所で、これがなかったら、ミッテンヴァルトは、アルプスの谷あいの村に過ぎないと感じた。



・・・・ 【クロッツがヴァイオリンを造った工房を復元した部屋】

時代によってヴァイオリンの形が微妙に変化している。音色の追求のために、改良の試行錯誤を繰り返した結果がわかって面白い。
どのようにつくられていくのか、製造工程が具体的にわかる部屋がある。木材の乾燥の手順、微妙な曲線を作る道具など、「なるほど、うまく考えられているね」と理解できた。

所々に、展示物を解説するガイドがいて、歴史的な背景を熱心に話す。「ヴァイオリンは、モンゴルの馬頭琴がはじまりです」と聞いて、東西文化の伝達や交流の歴史を感じた。

1934年製造の弦楽器を見つけたとき、わが寿命と同じだと妙に感心した。

小さな博物館だから、30分ほどで見学は終了。

昼食後、クロッツに所縁のある「聖ペテロとパウロ教会」へ。こじんまりとして美しいが、内部に入ると、カビ臭い。

村の通りに面している古い建物の壁に、フレスコ画が描かれている。外に描かれているのだから、聖堂や修道院のフレスコ画と比較するのは問題だが、色彩のゴテゴテとした印象は、ドイツ系の色彩感覚か? 優雅というには遠い。
聖母マリアや天使を優雅に描いた宗教的なもの、風景や村人の生活を描いたものなど、だまし絵のような装飾的なものなどがある。建物の持ち主が依頼したのだろうか。フレスコ画が、どんな背景で描かれたのか興味があったが、わからず仕舞いだった。純朴な、稚拙なものが多かったけれど、村の職人(画家?)の心意気を感じた。

2時半の列車でインスブルックへ戻った。車両の半分を仕切ったこどもコーナーがあり、カラフルな遊具に興ずる子どもの様子が印象に残った。

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