2012年3月13日火曜日

前泊 3月19日、異常事態の旅立ち

自宅を出てから成田空港までの道程は、異常だった。

崩れた大谷石の塀が、道に迫り出している。たくさんの家屋がブルーシートで覆われ、揺れの激しさを留める傾いた家の数々。

茨城東インターで北関東自動車道に入ると、前方にも、後ろにも、車がまったくない。崩れた法面(のりめん)や路肩に置かれたフェンス。応急補修の跡が新しい亀裂の走る道路。次々に現れる段差。時速50キロ制限の表示・・・。車はガタンガタンと弾みながら走った。「こんな時期にドライブするなんてね・・・」と、夫婦して自嘲気味に話す。

地震発生の数日前に、ガソリンを給油していた。地震直後は給油は大変だった。早朝スタンドに列ができ、半日がかりでやっと半量程度入れてもらえる。旅行直前にそこまでの苦労はしたくなかった。成田へ出かける前に給油してもらうつもりだったが、諦めた。すでに半分近くは消費している。給油ができなかったから、成田まで行きつけるのか、不安が募る。「多分、ホテルの駐車場には辿り着けるだろう」と夫は言う。楽天に傾く夫と、心配性の妻の取り合わせでたいていのことはバランスが取れるのだが、地震後には通用しなかろうと、心配になる。高速道路だからスピードを出したいけれど、道路状況はそれどころではない。燃費効率のよい低速(時速50km前後!)で走り続けた。

常磐道に合流した途端、福島県のいわきナンバーの車が急に増え、普段よりも多い。満載の荷物のなかに人が縮こまっている。いわきは原発事故の影響が大きいから、脱出する家族に違いない。

圏央道に乗ると、再び車の数が減った。道路沿いにあるアウトレットは、いつもなら買い物客と車が溢れているのに、人影ひとつない。地震後の日常の想像を絶する姿が迫ってくる。壊滅状態の第二次世界大戦後の復興を生きてきたけれど、原発事故を重ねあわせると、それを超える打撃になると感じた。

前泊するホテルに到着すると、危険箇所の点検のために、主要高層部分の灯りが消え、閉鎖されている。極端に利用客が減って、大半の従業員は自宅待機中だという。経営陣と思しき年配の男性が受付をしていたが、それでも人待ち顔で暇そうだ。専門のレストランはすべて閉鎖され、唯一ビュッフェのみ営業中。食料調達難で涙ぐましい調理の跡がうかがえ、食べられるだけでもありがたかった。ホテルは、まるでゴーストタウンの雰囲気に包まれていた。

翌日の成田空港も常ならぬ雰囲気だった。出発ロビーは暗く閑散としている。エミレーツ航空ドバイ行の列は長いが、カウンター前の手続きをする乗客の表情は硬く、ほとんど無口だ。空港特有の賑わいはなく、人々の旅立ちの高揚感は影を潜めている。地震前にツアーを申し込んでいた日本人は、キャンセルが多かった。
代わりに、日本人と外国人の国際結婚のカップルと幼い子どもを2・3人伴った家族や、急遽帰国するビジネスマンが目立つ。モロッコなどの地中海沿岸諸国へ、アフリカ大陸の南へ、イタリアなどのヨーロッパへと乗り継ぐ乗客が大半で、ドバイが、ハブ空港として重要な役割を果たしていることを知った。ドバイまでのフライトは、普段見かけない乗客でほぼ満席だった。中でも幼い子ども連れが目立つのは、紛れもなく家族揃った日本脱出に違いなかった。

さらに帰路に話を飛ばすと、ドバイ発成田行のエミレーツ航空機は、外国人が日本訪問を敬遠し、半分近くの空席が目立った。地震や津波、原発事故の大災害の打撃は、被災現地だけにとどまらないのだ。人々の往来が落ち込み、あるいは物流が絶たれ、経済的にも計り知れない。帰国の頃には多少は落ち着いているだろうと期待していたが、未だ日本全体に深刻な事態が続いていることを実感した。

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