2012年4月6日金曜日

(補足2)オマーンの歴史を辿る




【紀元前後、オマーンはインド洋と中東を結ぶ海洋ルートの拠点】

地理的な位置が「オマーン」の歴史をつくったと、つくづく思う。
歴史を少々、まとめにする。

マスカットでオマーン国立博物館を訪れ、近くの「ソハール遺跡」の発掘品に興味を持った。銅で製造された見事な品々が展示されていたのだ。
紀元前2000年頃までのソハール辺りでは、銅の採掘・精錬、加工が行われていた。それらの銅を目指して、古代オリエントの影響を受けたアラビア半島北部からの移住者が増え、当時としては先進的な文明がもたらされた。

紀元前後に、農業や牧畜で自給自足するオマーン人の部族社会が登場。
中には、海上交易に従事する者が現れて、金・奴隷・ナツメヤシの取引をし、交易の中心になった地に、「オンマナ」(オマーン)の名が見える。

7世紀にイスラム教が誕生すると、オマーンの現在の王家の祖先であるアズド族が改宗し、ソハール中心の海洋貿易がさらに盛んになる。アジアとヨーロッパの文化圈を結ぶ「絹の道(オアシスの道)」と「海の道」が、西アジア文化圏で南北につながって、地形的に恵まれた有力な交易ルートになった。

16世紀初頭、大航海時代を受けて、ヨーロッパの絶対主義諸国が海外植民政策を展開する時代が訪れる。ポルトガルはアジア進出の足がかりとして、オマーンを統治下に置いた。ところが、 ポルトガルが、世界支配を巡るイギリスとの争いに敗れて衰退し、オマーンから退く。その結果、逆にオマーンは東アフリカへ進出し、イギリスと競う海洋国家へと変貌し、19世紀半ばまで、対外的に押しも押されぬアラブ国家として活躍した。だが、国内では王位継承を巡る部族間の対立が激しくなって混乱が続く。

第一次世界大戦後、西アジアを中心に、相次いでイスラム教国家が誕生する。
民族や地域の歴史は古くからありながら、帝国主義諸国に支配されたのは、イスラム教を土台にした社会の仕組みと、アラーの神を絶対視する人々の意識があいまっている。こうした事情は、現在もなお、世界の政治不安の火種を抱える国があることに現れている。

参考までに、独立したイスラム諸国を列挙しておくと・・・。
まず、独立の早かった国は、アフガニスタン(1919)、エジプト王国(1922)、トルコ共和国(1923)、イラン王国(1925)、サウジアラビア王国(1926)だ。
さらに第二次世界大戦前には、イラク王国(1932)、シリア(1943)、レバノン(1944)と続く。
大戦後に、ヨルダン(1946)、クエート(1961)、バーレーン(1971)、カタール(1971)、アラブ首長国連邦(1971)、オマーン(1971)が独立。

イスラム圏が次々に独立していく中で、オマーンはイギリス支配下に置かれ、内戦と反乱が続発。政治的な混乱と衰退状態が続いている。
1970年、父親の前王サイードを退けた宮廷クーデターで、現国王カブースが即位。1971年にはイギリスが撤退した。
その後の近代化への急展開については、マスカットとサラーラの寄港日記に、書いた。

31㎢(日本の4分の3位)の国土の80%は砂漠と山岳であり、なんと海岸線は1700kmもある。今回のクルーズでは、この海岸線が、砂漠のイメージとは違ったオマーンを物語っていることを知った。

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