2012年4月13日金曜日

ペトラ遺跡、シーク(岩の割れ目)を目指す




【ペトラ遺跡に至るには、シーク(岩の割れ目)を辿る】

アカバ(ヨルダン)③ 4月2日(土)

10年以上も前に眺めたのに、鮮明に思い出す「ペトラ」の写真。「ナショナル・ジオグラフィック 日本版 1998年12月号」の特集だった。

陽を受けてバラ色に輝く岩肌。そこに絶妙に施された彫刻は、2000年以上の時を経ている。「素晴らしい遺跡があるのだなあ」と、その美しさに感動し、何度も写真を眺め、訪れたいと切望した。その一方で、中東の砂漠の遺跡を訪れるなんてことは、夢のような話で、実現は不可能だと諦めていた。

それが中東情勢の不穏な動きから、思いがけず、ペトラ遺跡観光の機会がやって来た。我が身に訪れた僥倖を、なんと感謝したらいいのだろう。

「ペトラ」は「岩」を意味する。
どんな人たちが、いつ頃、どのようにして、この地を見つけ、どうして住みついたのか。繁栄した都市が、なぜ滅亡したのか。

大まかに理解できたのは、紀元前数世紀頃、ナバテア人が自然の岩山を利用して城塞都市を築いたこと。芸術性豊かな高度の文化を遺し、隊商の交易の要衝として繁栄したことだ。しかし、ローマ帝国に併合され、やがて忽然と姿を消してしまった。



【ペトラ遺跡の地図,右下方にビジターセンターの方向を示す矢印、
シークは点線で。上記のナショジェオ号から引用】


まずは入場をチェックする入口を入り、茫漠とした砂礫の道を歩き出す。うっかりすると、砂に足をとられ、ズズッと滑る。周囲には岩山が連なって、前方遠くに、縦に口を開けたような割れ目のある岩山が迫り出して見える。
砂漠特有の乾いた暑さ。容赦なく照りつける日差し。「これは、たいへんな観光になるなあ。苦あれば、楽あり・・・」と、覚悟する。
そんな気配を察して、ラクダを引いた男が「これにに乗ると疲れないよ」としつこく誘っている。観光を終えて、帰路に利用する人が多い。

歩くこと20分。幽霊の墓、オベリスクの墓。古代ナバテア人からローマ時代にも使われた墳墓群を眺めながら、自然の侵食でできたシーク(割れ目)に、やっと辿りつく。

「1万年以上も前の鉄器時代、アカバからシリアを往来する隊商路が造られ、ペトラに小さな集落があったそうです。
紀元前7世紀頃には、モーセの子孫がやって来て定着し、隊商を編成して商業が栄えています。
やがてナバテア人がやってきて小王国が成立。岩山を利用した城塞都市ペトラが賑わいます。岩山の地下から流れる泉があったので、3800メートルもの人工の水路が造られました。・・・」。

モハンナドさんの解説に耳を傾けながら、切り立った岩の裂け目を歩く。
この道は隊商路だったが、ローマ軍が去ると、いつしか砂漠の砂塵に覆われて、姿を消した。それでもベドウインの移動はずーっと続き、ペトラにテントを張る生活は続いたという。

20世紀後半になって、ベドウインの古老の言い伝えを聞いたヨルダン政府が、遺跡の考古学的発掘に乗り出し、往時のペトラの姿が再び蘇ったという。

0 件のコメント:

コメントを投稿