2012年4月23日月曜日

書籍「スエズ運河」に導かれて




【エジプト、スエズ運河あたりの地図、グーグル・マップから合成】

スエズ運河通峡の1日① 4月5日(火)旅の17日目

30数年前、偶々「スエズ運河」(酒井傳六著 新潮選書 1976年)を読んだ。
目次に、第八章「レセップスの構想力と行動」があった。スエズ運河と言えばレセップス。どんな人だろう。それをお目当てにした極めて単純な動機だった。

ところがである。この本は、面白く、わかり易く、小説よりもずっと楽しく、レセップスへの興味以上に、エジプトのドキュメント物語として、貪り読んだのだ。
エジプトの歴史を辿りながら、4000年の運河構想の背景を知った。
フランス人のレセップスは、運河完成によって「世紀の英雄」と賞賛され、ポートサイド西岸にブロンズ像が建てられたが、1956年の第2次中東戦争時に破壊され、「帝国主義の手先」と謗られた。
その3ヶ月前に、ナセル大統領はスエズ運河のエジプト国有化を宣言している。

歴史の中で、国際政治と軍事・外交、民族意識などが絡まり合って、変貌を遂げていく。それらが鮮やかに描かれ、興味が尽きなかった。

運河建造に携わった労働者(実態は奴隷)は、ピラミッド建造に匹敵するような過酷な労働で、12万人(イギリス側の資料では20万人だとも)も亡くなっている。華々しいスエズ運河の完成の背後に隠された犠牲者は、あまり知られることがないが、なんと多かったことか。

運河完成後、イギリスは、運河最大の受益者となったばかりでなく、運河会社そのものの経営を手にした。乗っ取りとも言える動きに、”早耳のロスチャイルド”が存在している。

英仏がエジプトを巡って熾烈な軍事・外交を展開し、英仏両国の中東・アジア進出の要となったそのエジプトは、政治の脆さを抱えていたし、さらには地中海進出を図るロシアとオスマントルコの縄張り争いなど、19世紀以降の世界の動向が、壮大なドラマとして次々に繋がった。

「スエズ運河」を読んで、近現代史への興味が促されたと言っていい。
「いつかスエズ運河を訪れる機会はあるかなあ。多分、無理だろうなあ」。
こんな淡い夢を抱き続け、やっとスエズ運河通峡の旅が実現したのだから、感慨深い。

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