2012年4月15日日曜日

旧約聖書の時代・古い歴史の舞台を辿りながら宗教を思う




【死海に至る国道90号線は聖書にあるネゲブ砂漠を北上する】

エイラット(イスラエル)② 4月3日(日)

バスの窓外に、旧約聖書に出てくる地名や物語が登場し、解説が続く。
ときどき、夫と顔を見合わせ、苦笑いしながら首をかしげる。2人とも、両親はクリスチャンだったから、生まれも育ちもキリスト教の家庭で、人生の前半は熱心に教会と関わった。門前の小僧よろしく、旧約聖書や新約聖書に親しんだから、知識としては詳しい。曖昧な(聞いている側にはいい加減な)説明をするガイドにとっては、こういう観光客は、嫌な存在だろう。
振り返ってはいけないと言う約束を破り、塩柱になったロト。「あそこですよ」と指差す方向に、細長い塩らしい白い柱が見える。



【聖書にあるロトの柱と伝えられる岩の柱】

ソロモン王時代の銅の採掘跡と称する場所に、言われなければ見過ごす薄い緑色の、なんの変哲もない岩の塊が転がっている。ソロモン王の元へ、シバの女王が乳香・没薬を運んで交易をした話が続く。

「この辺りに、アブラハムやイシュマイルが、ヒブラ(幕屋)を張って生活していました・・・」。
この2人については、数日前、イスラム教の預言者として説明を聞いたばかり。
訪れる国が異なってガイドも変わるが、あちらで聞いて、こちらでまた聞いてと、同じ登場人物の話が続く。
対立している中東世界なのに、宗教や民族の違いを超え、紀元前の歴史が繋がってくる。ガイドによって、同一の人物像はかなり違い、アラビア半島に根を下ろす宗教の違いが透けて見える。

どの宗教にも言えるが、信仰の違いが寛容な心情を奪って、民族、国家、個人の間のお互いの憎しみを露わにし、ときには残忍なほどの対立感情を剥き出しにする。宗教・信仰は、人間を救うものではなかったか。畏敬の念をもって、信仰を受け入れただろうに。特に熱心な信者ほど始末が悪い?と、とつおいつ思う。

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