2012年4月6日金曜日

サラーラの緑と交易の背景を知る




【アラビア半島南岸、物流の拠点、サラーラ港に入港】

3月27日(日) サラーラ① 旅の8日目
8時頃、サラーラ港に接岸。港の風景を眺めるのは、いつも楽しい。船員たちがキビキビと立ち働く様子を眺めていると、未知の土地への期待が膨らんでくる。
港に迫る岩山に、背丈は短いが樹木が生え、今までの寄港地のどこよりも緑が多い。クレーンでひょいとつまみあげられたコンテナが、大型トラックに置かれ、どんどん運ばれて行く。効率的な作業の、速いこと、速いこと・・・。

9時頃に上陸。サラーラ・ガイドのラシッド氏が、開口いちばん「地震のお見舞いを申し上げます」。挨拶の言葉に不意をつかれ、未曾有の混乱の最中に、日本を離れたことが蘇ってくる。

バスで走りながら、サラーラだけでなく最近のオマーンの話を聞くと、窓外に広がる印象が重なって、「なるほど・・・」と、勉強になる。
緑が多いのは、アラビア半島南部にモンスーンが吹き、6月半ばから9月にかけて雨期が訪れるからだ。その恩恵で樹木が育つ。街の通りの中央分離帯には、椰子やバナナの木の街路樹が枝を広げている。市街地を抜けると、パパイアやココナッツのプランテーションが現れる。「雨季の恩恵が1年中あるのかなあ。雨季以外は乾燥するだろうに・・・」と説明を復習していると、「この辺りは、地下5メートルも掘ると、水が出てきますよ」とガイド氏。
遠い昔、オマーンの地に部族社会ができた2000年前頃だが、北部のペルシャから灌漑方法(ファラジュ)が伝わっているという。サラーラでは、人々は、昔から農業中心の暮らしをしていると聞き、砂漠の印象とはだいぶ違って、認識を新たにする。

ここ半世紀のサラーラ港は、コンテナ基地として活気がある。その背景は・・・。
後ほど「補足2、オマーンの歴史」を書く予定だが、古くからアラビア海沿岸とインドの交易があり、サラーラはすでに交易の中心だった。近くの遺跡には、その頃の様子を遺す品々がある。19世紀末に、オマーンがイギリスの統治下に置かれ、1971年にイギリスが撤退したときの事情が、その後のサラーラが交易の拠点として繁栄することにつながっている。
隣国のUAEもイギリスが支配し、オマーンとほぼ同じ頃独立した。イギリスは撤退時に、ホルムズ海峡に面するオマーン領ムサンダム地方を手放さず、UAEに挟まれた飛び地となった。ホルムズ海峡の対岸にあるイランやペルシャ湾奥の国々は政情不安定で、イスラム教世界ながら、オマーンとは仲がよくない。そんな事情から、国の近代化が進むにつれ、サラーラ港は、地の利を得た重要な中継基地になったのだ。

サラーラ港を基地にするコンテナ運営会社は、オランダ企業が多い。かつての中継海上交易の実績からなのだろう。アメリカやカナダからの輸出品がオランダ船籍の船でサラーラ港に運ばれる。陸揚げ後のコンテナは、陸上を運ばれて地中海や中東の国々へ向かう。あるいは船でアジア諸国へ運ばれていく。輸入品はその逆方向で輸送される。スエズ運河を利用すると、時間は短くなるが通行料が高いので、収益にはね返る・・・。
なるほど。謎が解けるように、サラーラの風景が理解できる。

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