2012年4月9日月曜日

王家の谷




【ルクソール、ナイル川西岸の王家の谷、ハトシェプスト女王葬祭殿】

サファガ(エジプト)⑥ 4月1日(金)
死者の領域とされる太陽が沈むナイル川西岸へ、ボートで渡る。
歴代のファラオが眠る「王家の谷」は、現在も発掘が続く。新王国時代になってから造営されたファラオの墓群の規模は、どの程度になるかはわからないという。
入り口から、電気自動車(トロッコ)に乗って、太陽がカンカン照りつける岩原をゴトゴト走り、62番目の「ツタンカーメン(第18王朝の王、紀元前1358年頃?)」の墓と、9番目のラムセス6世( 第20王朝の王、紀元前 1145年頃?)の墓を観る。二つの墓は炎天下の遮るもののない道を歩いて、ご近所同士だ。
盗掘を避けた墓は、あの目立つピラミッドとは逆に、岩を掘り下げて地下に潜ったが、どの墓も目ぼしい副葬品のほとんどが盗まれている。
「工事に携わった労働者や関係者なら、なにが運び込まれたか、わかるんじゃないの?」「そうよねえ。情報はあるし、泥棒をしようと思えば、好都合で簡単よねえ・・・」と、ヒソヒソ声が聞こえる。



【王家の谷の域内は撮影禁止である。これは域外の葬祭殿に近い部分】

そんな中で、1922年に発掘されたツタンカーメンの墓は、奇跡的に豪華な副葬品の数々が残っていたのだ。ハイサムさんの解説では、「わずか6年間の治世で、18歳の若さで亡くなった王には実績がなかったので、質素な墓でした。盗人は大したものがないと考えたのでしょうね」と。

盗人から難を逃れ、こうして、古代エジプトへの想像をかきたてる貴重な遺産を観ることができるのだから、盗人の判断に感謝すべきだろうか。あるいは、盗掘を仕事にする人間が、「労多くして実りなし」とソッポを向いたのなら、見事な強かさだと変に感心したくなる。

ツタンカーメンのミイラが、玄室に安置されている。壁には、死後の審判を司どる再生と復活の象徴の神・オシリスの形をしたツタンカーメンが描かれている。
青年王の美少年の面影を留めているお馴染みの黄金のマスクは、カイロにある。
今回は、残念ながら実物の鑑賞はできない。だが映像で観る輝きは、エジプトのファラオの絶大な存在を象徴している。

ラムセス6世の墓は、鮮やかな壁画が素晴らしい。「夜の書」「昼の書」の解説を読みながら、この世とあの世に生き続けるファラオの野望と、当時のファラオの生活を想像し、堪能する。

次に訪れたハトシェプスト女王の葬祭場には、圧倒された。大きい岩山をそのまま利用し、3階建ての宮殿のような外観だ。長いアプローチを歩き、階段を上るだけで、いささかへばる。すでに触れたが、女王はなかなかの遣り手で、乳香貿易を盛んにおこなった。ブント(現在のソマリア)の交易では、キリン・トラ・野牛・木材を輸入し、当時の様子が生き生きと葬祭場のレリーフに描かれている。

4時過ぎ。ルクソール大橋をバスで渡り、再び生者の地のルクソールへ戻る。
窓外を眺めながらの市内観光は、同時に、エジプトの歴史のまとめだった。
カメラストップをし、散歩をしながら、午前中に訪れた遺跡を遠くに望みながら、ルクソール神殿へ。
この神殿は、カルナックのアモン神殿の付属神殿として造られ、カルナック神殿とスフィンクス参道で繋がっている。



【ルクソール神殿第1塔門前のラメセス2世の坐像】

第1塔門前には2本のオベリスクがあったが、その1本は、パリのコンコルド広場へ運ばれていると聞き、「あれだ・・・」とパリで見たオベリスクに思いが飛ぶ。
フランスやイギリスは、かつてエジプトを植民地として支配した。遺跡にあった古代のエジプト文明の数々が、持ち去られた。それらの返還交渉が今も続いている。

紀元前332年、マケドニア王国のアレキサンダー大王は、エジプトを征服し、テーベ(ルクソール)でプトレマイオス朝を開いた。その時代の神々を祀る儀式、戦争の様子が、浮き彫りや沈み彫りの技法を縦横に活用したレリーフに遺っている。
「プトレマイオス朝最後のクレオパトラ女王は、ギリシャ人ですよ」と聞きながら、最後のカメラ・ストップ。

夕刻、ルクソールを離れ、サファガヘ向けて出発。片道3時間半近く。コスタ・ルミノーザ号へ帰着したのは、夜9時近かった。11時出港。

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